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友人Nが
写真をメールしてきました。

その写真を見て
わたしは愕然としました。
『いよいよNも、呆けたか!』
と、思ったのです。
だって写真には
人間の頭と天井だけが
写っていたのです。
だけど
本文を読んで安心しました。
Nのメールです。
『今、永田町で
広東麺を食べたところ。
議員会館の食堂は前より
落ち着いた雰囲気です。
天井の蛍光灯を
少なくしたためのようで
4列の内
燈っているのは1列だけです。
国は先駆けて
電力節減に努めています。
これから帰って
朝食会の
案内文を起こします。
君にも届くはずです。』
Nに返事を送りました。
『おっはー!
君の本文を読む前に
写真を見たら
ちょっとだけ頭の写った
写真だった。
「ありゃりゃ!
Nもとうとう呆けたか!
いつの間にこんな
写真を撮るようになったのか!」
と、ちょっと心配になった。
でも本文を読んで安心したよ。
意識して
蛍光灯を写してたんだな。
良かったよ、君が正常で。』
みなさん!
もうお分かりでしょ!!
わたし達はもう
お互いが信じられない
それなりの
年になって来ているんですよ!!!
写真をメールしてきました。
その写真を見て
わたしは愕然としました。
『いよいよNも、呆けたか!』
と、思ったのです。
だって写真には
人間の頭と天井だけが
写っていたのです。
だけど
本文を読んで安心しました。
Nのメールです。
『今、永田町で
広東麺を食べたところ。
議員会館の食堂は前より
落ち着いた雰囲気です。
天井の蛍光灯を
少なくしたためのようで
4列の内
燈っているのは1列だけです。
国は先駆けて
電力節減に努めています。
これから帰って
朝食会の
案内文を起こします。
君にも届くはずです。』
Nに返事を送りました。
『おっはー!
君の本文を読む前に
写真を見たら
ちょっとだけ頭の写った
写真だった。
「ありゃりゃ!
Nもとうとう呆けたか!
いつの間にこんな
写真を撮るようになったのか!」
と、ちょっと心配になった。
でも本文を読んで安心したよ。
意識して
蛍光灯を写してたんだな。
良かったよ、君が正常で。』
みなさん!
もうお分かりでしょ!!
わたし達はもう
お互いが信じられない
それなりの
年になって来ているんですよ!!!
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『ことぶきマスター読本
いずみの里』に
87歳の母が書いていました。
『一隅の一隅を照らす人をめざし
飛来 乙女
県に
ことぶきマスター制度が発足して
間もない
昭和57年頃だったでしょうか。
私はことぶきマスターの意味も
よく知らないまま
人にすすめられ、推薦されて
お仲間入りしました。
そのころの私は
昭和50年に習い始めた詩吟を
10人位のグループで
やっておりましたので
詩吟の名目で
加入させて頂きました。
当時はまだ
趣味のグループというのが
あまりありませんでしたから
珍しかったのです。
そんなわけで
せっかく詩吟の名目で登録され
バッジ迄頂いたものですから
そのバッジに負けないようにと
一生懸命頑張って勉強しました。
県の会合にもよく出ましたし
村の行事にもよく参加しました。
でも、月日の経つのに従って
いつの間にやら
ことぶきマスターとしての
自覚は薄れてしまい
関心も
無くなってしまいました。
ことぶきマスターという言葉も
口にすることはありませんでした。
ところがこの度
役員の方から再び
ことぶきマスターのことをお聞きして
急に息を吹き返したような
新鮮な懐かしさを覚え
喜んで今日の日を
迎えた次第です。
私は現在、詩吟は勿論のこと
民謡やマンドリンなど
下手ながら
いろいろなグループに所属して
大勢の方々とお付き合いし
親しくして頂いています。
そして、機会ある毎に
その方々の
尊い人生体験をお聞きしたり
知識や技術技能を吸収したりして
加入させて頂いていて
ほんとによかったと
有難く思っているのです。
年をとっても、多くの人々に接し
勉強できることは
素晴らしいことだと思います。
私のように年を取りますと
皆さんのお世話になることばかりで
自分の得たものや
持ってるもので
人の為、社会の為に
貢献することはなかなか困難です。
今の私に出来ることは
ただ
地域の人々や多くの交友関係者と
いつも明るく楽しく
お付き合いしたいと
願うことです。
相手の人が私に会った時
何となく気分が明るくなり
心が和むような存在
『一隅の一隅を照らす』ことが出来る
人間になりたいと
私は今、そんな望みをもって
生きているのです。
いずみの里』に
87歳の母が書いていました。
『一隅の一隅を照らす人をめざし
飛来 乙女
県に
ことぶきマスター制度が発足して
間もない
昭和57年頃だったでしょうか。
私はことぶきマスターの意味も
よく知らないまま
人にすすめられ、推薦されて
お仲間入りしました。
そのころの私は
昭和50年に習い始めた詩吟を
10人位のグループで
やっておりましたので
詩吟の名目で
加入させて頂きました。
当時はまだ
趣味のグループというのが
あまりありませんでしたから
珍しかったのです。
そんなわけで
せっかく詩吟の名目で登録され
バッジ迄頂いたものですから
そのバッジに負けないようにと
一生懸命頑張って勉強しました。
県の会合にもよく出ましたし
村の行事にもよく参加しました。
でも、月日の経つのに従って
いつの間にやら
ことぶきマスターとしての
自覚は薄れてしまい
関心も
無くなってしまいました。
ことぶきマスターという言葉も
口にすることはありませんでした。
ところがこの度
役員の方から再び
ことぶきマスターのことをお聞きして
急に息を吹き返したような
新鮮な懐かしさを覚え
喜んで今日の日を
迎えた次第です。
私は現在、詩吟は勿論のこと
民謡やマンドリンなど
下手ながら
いろいろなグループに所属して
大勢の方々とお付き合いし
親しくして頂いています。
そして、機会ある毎に
その方々の
尊い人生体験をお聞きしたり
知識や技術技能を吸収したりして
加入させて頂いていて
ほんとによかったと
有難く思っているのです。
年をとっても、多くの人々に接し
勉強できることは
素晴らしいことだと思います。
私のように年を取りますと
皆さんのお世話になることばかりで
自分の得たものや
持ってるもので
人の為、社会の為に
貢献することはなかなか困難です。
今の私に出来ることは
ただ
地域の人々や多くの交友関係者と
いつも明るく楽しく
お付き合いしたいと
願うことです。
相手の人が私に会った時
何となく気分が明るくなり
心が和むような存在
『一隅の一隅を照らす』ことが出来る
人間になりたいと
私は今、そんな望みをもって
生きているのです。
病院の食事時
入院している母たちは
食堂に集まり
一緒に食事をとるように
なっています。
「ここに先生の書いた文章が
載ってるよ」
と、ちょっと離れたテーブルで
食事をとっていた見知らぬ男性が
母の食事介助をしているわたしに
1冊の本を見せてくれました。
町が発行した
『ことぶきマスター読本
いずみの里』
男性は食事中なのに
わざわざ
病室まで取りに
行って来てくれたのです。
母も忘れていたその本
男性は
町が16年も前に作った
その本を病室にまで持って来て
老後をどう生きるか
読み込んでおられるのです。
入院している母たちは
食堂に集まり
一緒に食事をとるように
なっています。
「ここに先生の書いた文章が
載ってるよ」
と、ちょっと離れたテーブルで
食事をとっていた見知らぬ男性が
母の食事介助をしているわたしに
1冊の本を見せてくれました。
町が発行した
『ことぶきマスター読本
いずみの里』
男性は食事中なのに
わざわざ
病室まで取りに
行って来てくれたのです。
母も忘れていたその本
男性は
町が16年も前に作った
その本を病室にまで持って来て
老後をどう生きるか
読み込んでおられるのです。
家で正月を過ごした
母は
3日の夕方
無事病院に戻りました。
「これから病院へ戻るんだからね」
と言っても母は
「何とか家に居させて!!」
などとは言わず叫ばず
わたしたちはほっとしながら
病院へ送り届けたのです。
病院に戻った母は不思議なことに
急に気力が戻り
出会う看護師さん毎に
笑顔で挨拶しました。
老いたりとはいえ
母もやっぱり社会人
他人の中に入ると
気を使うのでしょう。
この気配りが母を
支えているのだと思います。
母は
3日の夕方
無事病院に戻りました。
「これから病院へ戻るんだからね」
と言っても母は
「何とか家に居させて!!」
などとは言わず叫ばず
わたしたちはほっとしながら
病院へ送り届けたのです。
病院に戻った母は不思議なことに
急に気力が戻り
出会う看護師さん毎に
笑顔で挨拶しました。
老いたりとはいえ
母もやっぱり社会人
他人の中に入ると
気を使うのでしょう。
この気配りが母を
支えているのだと思います。
そんなわけで
わたし達には
3度の食事やトイレの世話
寝かしつけ以外
これはと言うほどの
仕事はなかったのです。
それでも
出来るだけ
母の傍にいてやろうと
時々3人揃って
枕元に集まったのですが
寝ている母の元では
これと言ってすることはなく
仕方なしに気晴らしに
いつもの馬鹿話をしながら
時を過ごしたのです。
だけど
わたし達が大笑いしていると
ふっと目覚めた母が
「私を笑い者にして!」
と、か細い声で
しばしば怒ったのです。
母は耳が遠いだけ
感が鋭くなっているのです。
『話題には気を付けなくちゃあ!』
と思ったわたし達です。
わたし達には
3度の食事やトイレの世話
寝かしつけ以外
これはと言うほどの
仕事はなかったのです。
それでも
出来るだけ
母の傍にいてやろうと
時々3人揃って
枕元に集まったのですが
寝ている母の元では
これと言ってすることはなく
仕方なしに気晴らしに
いつもの馬鹿話をしながら
時を過ごしたのです。
だけど
わたし達が大笑いしていると
ふっと目覚めた母が
「私を笑い者にして!」
と、か細い声で
しばしば怒ったのです。
母は耳が遠いだけ
感が鋭くなっているのです。
『話題には気を付けなくちゃあ!』
と思ったわたし達です。