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こんな風にして
母の『入院騒ぎ』は
終わったのです。
『入院騒ぎ』で終わって
わたし達は
本当にラッキーでした。
母の強運に感謝しています。
そして・・・
お世話になった
多くの方々にも
有難く感謝しています。
そして・・・
入院されておられる方々の
1日も早い全快を
お祈りしているのです。
「もう、いつ退院されても
いいですよ」
主治医が
病室に来て言いました。
「心配な所は
どこにもありません。
頭の断層写真も
血液のデータも
全く問題ありません。
腎臓がちょっと弱いけれど
歳が歳ですから
分るでしょ
若い人の様には行きません。
だけど
安心して帰られて結構です」
そう言ったのです。
「ほんとに
ありがとうございました。
やっぱり
立ち眩みの類だったんですか?」
わたしは安心しながらも
気になっている事を
根掘り葉掘り訊いたのです。
「先生の
お名前を教えて下さい!
お世話になった方のお名前くらい
知っていたいんです」
主治医とわたしのやり取りに
横にいた母が
突然入って来ました。
「名も無い医者ですよ」
主治医はそう言って
わたしとの質疑応答を打ち切り
出て行ったのです。
そんな風にして
一回目の説明は終わりました。
だけど
しつこいわたしは
ナースセンターに
再度主治医を訪ね
断層写真を見せてもらったり
血液検査結果を見せてもらったり。
医者をしている
わたしの次女に
報告する為の準備をしたのです。
「データはこんな所ですが
やっぱりもう
同居されたらどうですか」
2回目の別れ際
主治医がまた言いました。
主治医もなかなかのしつこさ
だなと
自分がしつこいわたしは
思ったのです。
母は
あっと言う間に
帰って来ました。
行きと違ってにっこにこ。
婦長さんに苦情を言っていた
朝とは大違い。
豹変していたのです。
そして
開口1番言いました。
「ここは
先生も看護士さんも
優しくて優しくて。
特に
男の先生が優しいのよ。
お世話になった
先生の名前を聞いておいてね」
と、言ったのです。
一体何があったのか?
婦長さんのお陰かどうかは
分りませんが
母の
病院に対する印象は
もうすっかり
変わっていたのです。
「さあ、心電図を撮りに
行きましょうね」
午前11時半
看護士さんが来て
母を車椅子で
連れて行きました。
母は不安そうな様子を
見せず
名残惜しそうな様子も
見せず
わたし達を病室に残し
無表情で
出て行きました。
わたし達を
振り返るでもなく
手を振るでもなく
「行って来るよ」
と、言う訳でもなかったのです。
母には
自分が何故
車椅子に乗せられ
連れて行かれるのか
何も分っていないんだ
と、わたしは思ったのです。
何せ
『意識消失発作』で倒れた上
耳が遠いのですから。
だけどわたしには
33年前に
肝臓癌の手術をし
亡くなった父の顔を思い出す
瞬間であったのです。
父は
何とも寂しそうな顔をして
「バイバイ」と言いながら
わたし達に手を振り
手術室に向かったのでした。
「看護士さんの言葉が荒い」
と、母が
婦長さんに苦情を言いました。
わたしは
荒くなんかなかった
と、思っています。
だけど
もし母がそう感じたとすれば
有り得る場面はただ1つ
入院時だったと思うのです。
病院に着いた時
母は多分
看護士さん達から
大声をかけられたと思うのです。
よく映画やテレビで観ますよね。
「飛来さん!
分りますか?飛来さん!!!」
「大丈夫ですか?
聞こえますか?飛来さん!!!」
看護士さん達がそう叫んで
患者を励ます場面。
母はよく聞こえぬまま
それをただ、怒鳴られたと
受け取ったのかも知れません。
考えてみれば
看護士さんのお仕事って
本当に大変なお仕事。
良くて当り前
駄目ならくそみそ。
わたしには
1晩だって勤まりません。
その為かどうか。
『一緒に働きませんか。
看護士さん10名募集』
っと、エレベーターの壁に
ありました。
それにもう1枚。
『医師はじめ
看護職員の過労により
10月から
土曜日の外来を中止します』
と、ありました。