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「芽衣子はね
ほんとに料理上手。
変った物を
毎回毎回作ってくれるの。
料理に心がこもっているのよ。
それに比べると
他の女っ子は全部手抜き。
買って来たのを1つか2つ
ただ並べるだけ。
家でも毎日
あんな貧しい食事をしてるのかしら?」
と、母がわたしの料理を
「美味しい、美味しい」と褒めながら
娘たちの手抜き料理を
こき下ろしました。
「じゃあ、お母さん!
僕と芽衣子とじゃどっちが上手なの?」
っと、わたしが聞くと
「そりゃあ・・・」
と言って、口をつぐみました。
「そりゃあ勿論、芽衣子」
っと、多分母は
言おうとしたんだと思います。
わたしだって分っています。
わたしも手抜きをしているのです。
わたしも手抜きをしているのです。
わたしの姉妹は最近
月に何日か実家に来てくれて
母の見守りをしたり
食事を作ったりしています。
だけど老いた母は
辛らつな料理評論家
歯に衣を着せぬ
厳しい評価を下すのです。
聞けば「美味しい」と答えながら
決して箸を進めないのです。PR
今日、母に見送られ
10日振りに富山に帰ってきました。
『見送り』と言えば
『出迎え三歩、見送り七歩』
と言う言葉があります。
出迎えよりも
見送る時に礼を尽くすのが
見送る時に礼を尽くすのが
もてなしの真髄だ、と言うのです。
母も、ちょっと前まで
戸口から100mの県道にまで出て
お客の姿が見えなくなるまで
見送っていました。
それは
わたしに対しても同じで
車が見えなくなるまで
見送っていてくれたのです。
そんな母の足元が覚束なくなって
見送りが石橋の所までになり
常口の上までになり
戸口までになり
そして今は
居間の椅子に座ったまま
サンルームのガラス越しに
見送るだけになりました。
だけどそこからは
去って行く車がよく見えません。
青垣に
見送り穴を開けてもらったのです。
それからのわたしは
見送り穴から見送っている母に
お別れのクラクションを
ちょっと長めに3回鳴らし
富山へと
出発するようになったのです。
「クラクションなんて
ご近所迷惑よ」
と、妻には文句を言われ
『霊柩車の出発みたいだな』
と、わたし自身も思うのですが
そんな文句も思いも
わたしは気に留めません。
わたしは
見送り穴から覗く
母の切ない思いに
ただただ応えて上げたくて
今日もクラクションを鳴らして
富山へと出発したのです。
連休に
わたしの長女一家が遊びに来て
母と
茶飲み話をしていた時のことです。
「本当に忘れっぽくなっちゃって
嫌になっちゃうの」
と、母がいつものように
言い出しました。
「だけど、お母さん
息をするのを忘れないんだから
それで十分じゃない」
と、わたしもいつものように
返しました。
これを聞いていた娘婿が言いました。
「そうですよ、お祖母ちゃん!
細かい事なんか気にしないで
ゆったり
生きりゃあいいんですよ」って。
「そうなのよ
食べる事も忘れてないしね」
と、母も素直に返しました。
わが家とはまったく違う
まっとうな家庭に育った
娘婿ですが
最近
わが家伝統のブラック会話に
入って来れるようになりました。
「こんな会話に引きずり込んで
ご両親に申し訳ないな」
と、思いながらも
わたしはちょっと嬉しいのです。 「私は日本一の幸せ者」
お花見から帰った母が言いました。
「私は日本一の幸せ者」
ショッピングセンターへ
行ってきた母が言いました。
「だってそうでしょ!
チョウキュウ(普通)に
歩けもしない私を連れ出すなんて
みんなだって面倒な筈。
こんな半端者を連れ歩くのは
本当に大変なことなのよ。
それなのに私は
連れ出してもらえるの。
この歳で
世間を見させてもらえるのよ。
ほんとうにありがたいわ
これ以上の幸せはないわよ。
世間一般の年寄りなんて
ほんとに可哀想。
『おばあちゃんはお留守番しててね。
歩くのが大変ですものね』って
そうお為ごかしに言われて
置いてかれるのが普通。
独り寂しく
家にいるのが普通なのよ。
年寄りを車に乗せたり降ろしたり
車椅子を乗せたり下ろしたり
手を引いたり、説明したりって
ほんとに大変だもの。
連れて行かなけりゃあ
どんなに楽だろうって
私自身が思うのよ。
だからね
わたしは日本一の幸せ者」
母は外出から帰って来る度
そう言うのです。
確かに、母の言う通り
母を連れ歩くのは面倒。
わたしだってできれば
連れ出したくなんかないのです。
だけど
「私は日本一の幸せ者」
と、そう言って喜んでくれる
母がいる限り
連れ出したくなるのが親子の情
って、もんなんですよね。
って、もんなんですよね。