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と、謙遜しているけれど
心から涙したのです。
中国から持ち帰った
1枚の
『残酷な写真』があります。
『低体温症は被災地の問題』
と思っていましたが
意外にもそれは
わが家でも起こりうる
問題だったのです。
福島第1原子力発電所の
トラブルによって
3月14日
関東地方の
計画停電が始まりました。
わたしの実家は第3グループ。
停電4日目の第3グループは
午後3時過ぎから
6時過ぎまでの停電でした。
「起きていても
ただ、寒いだけだからね。
昼寝しててよ、非常時だから」
と、わたしは母に
ベッドで寝てもらいました。
そこへ
『夜、予測不能の
大停電があるかも知れない。
って、ニュースで言ってるよ』
と、マノンから
メールがありました。
『すわ、一大事!
暗くならない内に
夕飯の用意をしとかなくっちゃ!』
と、わたしは早速
夕食の準備を始めました。
居間に置いている
停電時用のストーブは
『灯油を節約しなくっちゃあ』
と、消しておきました。
ありがたい事に
ガスと水は来ています。
畑にはほうれん草があるし
納屋にはジャガイモもあります。
田舎って、そういう所は
便利で豊か。
わたしはそんな小さな
幸せに浸りながら
情報発信してくれる
マノンに感謝しながら
戦中戦後よくあった
停電を思い出しながら
ほうれん草とジャガイモ入りの
子供の頃の懐かしい非常食?
『水団』もどきを作りました。
一段落して
薄暗くなった居間に戻ると
火の気のない炬燵で
マフラーだけ被った母が
寝た時の薄着のまま
唇を白くさせ
体中でガクガク
震えておりました。
「兄ちゃん寒い!」
わたしの顔を見るなり
母が
歯の根の合わない口で
訴えました。
「何してんのよ、お母さん!
何で、寝ていないのよ!!!
寝ててって、言ったでしょうが
お母さん!」
震えている母を見るなり
わたしは怒鳴ってしまいました。
脂肪もなくなり
骨と皮だけになった母の身体。
寒さがそれこそ
骨身に染みている筈。
こんな非常時
風邪をひかれちゃあ
困ります。
わたしは
震えている母が心配で
気持に余裕が全く無くなり
言う事を聞かず
心配させる母に
やたら腹が立ったのです。
「だって、停電だってこと
忘れてたんだもの」
と、母は抗弁したのですが
「ばっかじゃないの寒いのに!!!
寒いんなら寒いで
震えてるより
何で半纏着たり
毛布被ったりしないのよ!
ベッドに入ってりゃあ
よっぽど暖かいでしょうが!
僕は寝ててって
言ったでしょうが!!!」
わたしはまた、頭ごなしに
言ってしまいました。
「だって半纏
独りで着るのは大変なのよ。
それに、すぐ
暖かくなると思ったのよ。
心配かけて悪かったわねえ」
母はわたしの剣幕に恐れ入り
寒さも忘れて謝りました。
「一体いつから起きてたのよ!」
「30分くらいかな
分らないけど。
トイレに起きて
そのままここへ来たのよ」
「そんなこと言ったって
寝ててって言ったでしょうが!」
と、怒りが又ぶり返し
わたしはしょげ返る母を追いたて
再びベッドに寝かしたのです。
母は
寝てからも震えが止まらず
しばらく
『ガクガク』を
続けておりました。
そんな訳で
被災地でなくても
低体温症は発症しうると
分ったのです。
そして、わたしは
ガクガクしている母を見ながら
『もう
独りじゃおいとけないな』
と、こんな非常時
短時間でも母を
独りにし
ストーブを消しておいた事を
悔いたのです。
停電下
泣きっ面に蜂と言おうか
当然ながらと言おうか
電話はもちろん
携帯もつながりません。
だから、富山の妻や
東京の子供たちとも
姉妹らとも
連絡が取れませんでした。
それで仕方なく
着いたら儲けものと
メールを打っておきました。
正確な情報をと思ったけれど
いくつもあったラジオは
みんな電池切れ
全く役に立ちません。
それより何より
頼りにならなかったのが
市の防災無線。
これだけの大揺れに
大停電なのに
うんともすんとも
言わなかったのです。
隣町の防災無線は
風に乗ってうっすら聞こえるのに
肝心の近間のが
役立たずだったのです。
『何のための防災無線よ!』
と、怒ってみましたが
市役所への
連絡方法がありません。
仕方無し
寒い夜中、何度も車に通い
カーラジオで
ニュースを聞きました。
そうこうする内、夜中にやっと
妻や子供達からメールが届き
「みんな無事」だと一安心。
「携帯は使う時だけにして
切っといて!
いつ充電できるか
分らないんだから」
と、科学に弱い筈のマノンに
2度目のメールで言われ
『負た子に教えられ・・・』
の気分で切っておきました。
結局、翌日の早暁4時
13時間振りに
家中の電気がついてほっとしました。
こんな
わが家の有り様でしたが
そんな中でも
ガスと水は来ていたので
いざとなっても
食事だけは作れると
心強かったのは確かです。