[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
なぜ母に感謝を?
下の思い出話は
母と父の出会いを書いた
「ギョロ目」からの抜粋です。
それは
昭和3年4月1日だった
と、思います。
同じ年の3月下旬に
山梨県女子師範学校専攻科を
卒業した私は
身延尋常高等小学校に
赴任いたしました。
身延尋常小学校へ赴任
中央座っているのが母
学校を出て
1人前になったつもりでしたが
いざ赴任してみると
至らないことばかりでした。
当時の学級編成は
各学年2組ずつ
子供達は
成績の優劣によって
2組に分けられていました。
成績で
クラス分けするなんて
今から思えば
考えられないことですが
それは
当時の教育方針でした。
私は
3年劣組男女の受け持ちに
なりましたが
問題児も多かったように
思います。
でも
それより酷かったのは
休み時間などに
行われる
優組の
劣組に対する虐めでした。
劣組の子供は
優組の子供に
馬鹿にされたり
喧嘩を売られたり
泣かされることが
しばしばだったのです。
師範学校を出たてで
未完成な私は
かばい切れなくて
悔し涙を流すことが
何回もありました。
「かばい切れなくて
悔し涙を流す・・・」
しかとは分りませんが
教育者としての母には
こんな気持が
いつも
あったのかも知れません。
友江さんは
母のそんな気持に
共鳴していたのかも知れない
と、わたしは
想像したりしているのです。
友江さんは
母と同じ
教員になられたのです。