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夜の訪問者・いぼ蛙
実家近くで
いぼ蛙を見ることは
本当にまれです。
わたしの人生の中で
それこそ
5度あったか6度あったか
本当に珍しいのです。
一般的だったのは
アマガエルやアカガエル
トノサマガエル。
アマガエルも夜の訪問者
この3つは
子供時代の本当に身近な
「遊び相手」だったのです。
だけど・・・
「遊び相手」
と言えば聞こえはいいけれど
皮を剥いで
蜂取りの餌にしたり
注射器で尻から空気を入れて
風船にしたり
豊かな自然に囲まれていた
わたしは友人達と
今なら新聞種になるような
いたずらの限りを
尽くしていたのです。
そんなわたしだったけれど
いぼ蛙にだけは
手を出した事がありません。
どっしりした姿で
ゆっくり動くいぼ蛙が
「家の守り神」のように思えて
どうにも
手を出せなかったのです。
そう
「夜の訪問者」。
数年前の夜半のことです。
わたしが実家に帰ると
勝手口に先客一匹。
いぼ蛙が
来ておりました。
夜の訪問者
いぼ蛙
外灯の光に集まる
虫を狙って来ていたのですが
わが家には
こんな訪問者もあるのです。
わたしはこの時初めて
いぼ蛙を
じっくり見たのですが・・・
一番驚いたのは
虫を食べる、その素早さ。
いぼ蛙は
のっそりのっそり歩くので
全てが遅いと思っていたら
大間違い。
虫を食べる瞬間は
ほんとに素早いのです。
「バクッ!」って音がするので
多分
虫を食ったんだろうな?
と、推量するしかない
それくらい早いのです。
その上
その「バクッ!」って音が
また凄い。
「パクッ」なんて
生易しい音じゃないんです。
ほんとに「バクッ!」って
ドスの利いた音がするので
大びっくりです。
「蛙なら触れるわ」
いぼ蛙の食べっぷりに
しばし見入った後
母が豪語しました。
母は大の蛇嫌いですが
蛙は平気
生まれた寺にも
いたというのです。
訪問者と言えば・・・
そう、鹿たち。
わが家の裏庭に
最近
鹿が来るようになったのです。
「お尻が白いからあれはきっと鹿。
キッチンの窓から
何度も見たんだから
絶対間違いっこないわ。
昼ご飯食べてると必ず
右から左に横切って行くのよ。
だから・・・
ご飯を食べながら
いつも待ってるの」
ここしばらく
母が
そう言い張っていたのです。
「まさかあ!
鹿が来るなんてこと
あるわけないじゃない。
犬かなんかと
見間違えたんじゃないの?」
わたしは自分の目で
見るまで
母の言葉が
信じられなかったのです。
「アフリカ人の訪問」を
信じられなかった
エレン一家と同じ心境。
わたしはもう
母の目を信じていないのです。
だけど先日・・・
ついにわが目で確認したのです。
立派な角を生やした
2頭の雄鹿と7頭の雌鹿の群れ。
証拠写真も撮りました。
「お母さん、ごめん!
お母さんは
やっぱりしっかりしてますよ」
裏庭に思いもよらず
鹿の群れ
ありがたいことに
いろんな方が
訪ねて来て下さいます。
近所の方々、趣味の会の方々
教え子の方々
友人知人の方々・・・
ほんとうにありがたいことです。
時には
思いも寄らない方々の訪問も
あります。
例えば
アフリカや中米の方たち。
研修に来られた方たちで
ここ数年続けて来てくれました。
自称四女の遼子さんが
案内して来てくれるのですが
山梨の片田舎の
しかも
白寿の老女のところに
大勢の外国人が
来てくれるなんて!
いったい
誰が信じることでしょう。
ちょっと前のことです。
東京に住む孫娘のエレンが
嫁ぎ先の家族と
母の所に突然立ち寄りました。
「先日
アフリカの人たちが来てねえ」
母がそう話し出した途端
エレンたち一家一同は
そそくさと
お茶も飲まずに
帰ってしまったと言うのです。
「だって・・・
お祖母ちゃんが惚けちゃったって
みんなが思ったんだもの」
エレンは
後で弁解していましたが
他人はもとより
突然聞いた一族にだって
とても信じられない
ことなのです。
だけど
いろんな方の訪問は
母にとってほんとにいい刺激。
こんな刺激が
独りで出歩けなくなった
母を支えてくれているのです。
遠路の研修者に囲まれて
日本に
春彼岸の三月二十日
今年もまた
教え子たちが
母を訪ねて来てくれました。
だあれが生徒か先生か
中央が母です
山梨県の
南西の端から北の端まで
車をチャーターして
来てくれました。
母は
「子供たちが、子供たちが・・・」
と、言いますが
みんなもう80過ぎの
子供たち。
毎年撮る写真も
「めだかの学校」状態。
「だあれが生徒か、先生か」
見た目ではもう判別付きません。
そんな子供たちが毎年
痛い足や腰を騙し騙し
来てくれるのです。
そして
持ち寄った料理に
舌鼓を打ちつつ
思い出話に花を咲かすのです。
厳しかった長刀訓練の話
バレーの試合の話
自分たちが叩かれる
竹を採りに行かされた話。
そんな思い出話で大盛り上がり。
みんな70年前の
あの若かった日に戻るのです。
母が奉職していた県内第2の大規模校
増穂尋常高等小学校
右上写真左から4番目が母
戦時中のこと
母は厳しい教師だった
と、子供たちは口々にいいます。
なのに
こんな師弟関係を
70年も続けて来られた母は
やっぱり
教師冥利に尽きる
母なのです。