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「気味が悪くって・・・」

母が電話で言って来ました。

「どうしたの?」

またトラブルか!
と、嫌な予感でドキっとしながら

わたしは聞き返しました。

母によれば、昨日のこと

近所のTさんと
お茶を飲んでいると

男が突然
上がって来たというのです。

男は見も知らぬ人だけれど
妙に馴れ馴れしい。

だから

母は「どなたでしたっけ?」とも
「何か御用ですか?」とも聞けません。

仕方なし

Tさんにお茶を入れてもらって
しばらく世間話をしたのです。

だけど

男が誰だったのかは
最後まで分らずじまい。

「あの人、だれだっけ?」

男が帰った後で

母はTさんに聞いたのだけれど
やっぱり分らない。

実家に入りびたりの
Tさんでさえ

会ったことのない人だった
のです。

「じゃあ、あなた・・・

何で
あんなに親しそうに話したのよ」

母がTさんをなじりました。

「だって・・・

お母さんの知り合いだ
と、思ったんだもの」

Tさんも負けじと
言い返したんだそうです。

まあ

そんなやり取りをいくらしても
分からないものは分らない。

それで母は

気味が悪くなって
電話をして来たのです。

「兄ちゃんなら
誰だか分ると思ってね」

母が不安そうな声で
言いました。

「そんなこと
僕に分る訳ないじゃない。

今度来た時聞くしかないさ。

大丈夫だよ。

ニコニコしてたんなら
悪い人じゃないさ」

その場にいなかったわたしは

そう言って安心させてやるしか
ありませんでした。



母の所へ来られる
大勢の方の中には

昨日今日
友達になった方もおられれば

数年に一度

忘れた頃に来られる方も
おられます。

そんな方達には

本当に申し訳ないこと
なのだけれど

母が顔を忘れてしまった方も
おられるのです。

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「お婆ちゃん、お元気ですか?!」

わたしが
実家に帰っていた時のことです。

娘さんが3人

にこやかに
親しげに訪ねて来ました。

こんな若い娘さんたちと母に
どんな接点が・・・?

不思議に思って聞いてみると
E宗教の活動家の方達。

娘さん達の話によれば
時々寄っては

お茶を飲んだり
世間話をしたり

楽しくしているのだ
と、言うことでした。



母は
日蓮宗のお寺の生まれですが

特定の宗教や宗派に
執着していません。

しかも
どちらかと言えば不信心の方。

仏壇に
朝晩お参りする

などと言うことはないのです。

もちろん

伯父の寺に
寄進もしてはおりますが

それは

信心からと言うより
伯父への思いからと言った感じ。

宗教系の
「S新聞」や「R新聞」も

頼まれて
何十年も取り続けています。

だけど

それも、ただ頼まれたから
取っているだけのこと。

申し訳ないのだけれど
ほとんど読むことはないのです。

だけど

その代わりと言っては
何ですが・・・

母は
宗教にはいたって寛容

どんな宗教の方でも
受け入れているのです。

「宗教活動には興味がないの。
私は入りませんよ」

と、そう断りながら

時たま訪ねて来る
いろんな宗教の方に

お茶を勧めながら
話を聞き続ける母なのです。

友江さんは
なぜ母に感謝を?

下の思い出話は

母と父の出会いを書いた
「ギョロ目」からの抜粋です。



それは

昭和3年4月1日だった
と、思います。

同じ年の3月下旬に

山梨県女子師範学校専攻科を
卒業した私は

身延尋常高等小学校に
赴任いたしました。

 

9ea9ab65jpeg


 身延尋常小学校へ赴任
  中央座っているのが母




学校を出て
1人前になったつもりでしたが

いざ赴任してみると
至らないことばかりでした。

当時の学級編成は
各学年2組ずつ

子供達は

成績の優劣によって
2組に分けられていました。

成績で
クラス分けするなんて

今から思えば
考えられないことですが

それは
当時の教育方針でした。

私は

3年劣組男女の受け持ちに
なりましたが

問題児も多かったように
思います。

でも
それより酷かったのは

休み時間などに
行われる

優組の
劣組に対する虐めでした。

劣組の子供は
優組の子供に

馬鹿にされたり
喧嘩を売られたり

泣かされることが
しばしばだったのです。

師範学校を出たてで
未完成な私は

かばい切れなくて

悔し涙を流すことが
何回もありました。



「かばい切れなくて
悔し涙を流す・・・」

しかとは分りませんが

教育者としての母には
こんな気持が

いつも
あったのかも知れません。

友江さんは

母のそんな気持に
共鳴していたのかも知れない

と、わたしは
想像したりしているのです。

友江さんは

母と同じ
教員になられたのです。

「感謝の気持を贈ります」

そう言って

今年もまた友江さんから
「プレゼント」が届きました。



母が94歳になった時

友江さんから
突然手紙が来ました。

母の住所を新聞記事で
知ったのだそうです。

それから

ふたりの手紙や電話での
お付き合いが始まり

5年余りが経ちました。

山梨の南と北に住み
「お会いしたいわ」「会いたいわね」

そう言い合いながら
年を重ねてしまったふたりです。

会いたい人

それは友江さんだと
母が言います。

だけど、母はもう直ぐ百歳
再会はもう思うだけのもの

1人では
会いに行けなくなりました。

だけど、だからこそ

今年こそ
2人を会わせてやりたい。

3女とわたしは今
密かに作戦を練っているのです。



昭和6年

母は

山梨県の南の端にある
帯金尋常高等小学校に

赴任しました。

8.05.16obikanejinnjoukoutoushougakkou-w500.jpg
 帯金尋常高等小学校卒業写真
  前列左から3人目が母






そこで

1年生になった友江さんと
担任となった母とが

出会ったのです。

友江さんとは

77年前の
そのたった1年の付き合い。

転勤して以来
一度も会っていないのです。

母が
1年生の友江さんに

何を残したのか
わたしには分りません。

母も分らないと言います。

だけど友江さんは

「母の日のプレゼント」を
毎年贈ってくれるのです。

母の

77年前の教え子
友江さんとのこんな交流が

わたし達には
何にも増して誇らしく

この上なく嬉しいのです。
 

訪問者なら
だれでも歓迎!

そんな母ですが蛇だけは駄目。

蛇が出ると

近所中に電話をかけまくり
始末してもらう母なのです。



岐阜県にある

友人の別荘に行った時の
ことです。

ふと気が付くと
庭に大きなやまかがし。

8.05.13hebigakaeruwo-w360.jpg
 食物連鎖の厳しさを・・・






赤蛙をくわえたまま
鎌首をもたげ

わたしを
じっと睨んでいたのです。

赤蛙はといえばもう顔面蒼白
ならぬ全身蒼白。

食物連鎖の厳しさを
目の当たりにした瞬間でした。



やまかがしは

わたしの実家でも
よく見かける蛇です。

実家の周りの石垣が
絶好の棲家なのです。

母には内緒ですが・・・

わたしは実家で
やまかがしの抜け殻を見つけ

慌てて
始末したことがあります。

所はご存知、例の場所

8.05.13wagayanohebi-w500.jpg


 所も忘れ脱皮したやまかがし






「いぼ蛙」や「アマガエル」が出た所
と言えばもうお分かりでしょう。

そうです。
わが家の勝手口です。

たぶん蛙を狙って来たなり
所を忘れ

脱皮してしまったんだ
と、思うのです。

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